2013年9月19日木曜日

志ん朝論

 前回、馬生を取り上げたので、ではでは、今回は志ん朝ということで。…あっ、最初にいっときますが、タイトルは、「慎重論」とかけているだけです。むずしいことは申せません。

 古今亭志ん朝と聞くと、なぜかもやもやとした気分に陥ってしまう。兄の金原亭馬生の場合は、ひいきもあるのだろうが、笑いがこみあげてくる。ところがこちらの場合は、まゆをひそめ、首をかしげ、考え込んでしまう。

 嫌いなのか、と問われると、また首をかしげてしまう。この人の噺で、好きなのも多い。でもなにか腑に落ちない。なんなんだ、この感覚は。
 
江戸落語四天王などと呼ばれていた談志、圓楽、圓蔵(柳朝は知らない)、志ん朝のうちだれが好きか、と問われれば、志ん朝以外全部嫌い、と答える。さりとて、志ん朝が好きとは、なぜか言いたくない。

 いつまでも首をかしげていても仕方がないので、推論してみよう。

1.めぐまれすぎている
 
・父親が志ん生だ、というのが一番恵まれていることだろうが、それは馬生も同じだ。
・入門5年で真打にスピード出世。「圓朝」を継ぐのはこの人だ、などとまで志ん朝をほめていた8代目文楽のヒキで。はっきりいってこんな話は知らなかったので、私のもやもや感とは無関係。

2.テレビタレント

・さきほどの江戸落語四天王の話だが、4人が4人とも、なんだか落語家というより、タレントっぽい。それほどテレビでの露出が高かった。談志は偉そうで嫌い。圓楽は話が詰まらん。圓蔵(柳朝は知らん)は生理的に受け付けない。まともなのは志ん朝だけだが、タレントっぽいから好きじゃないのか? では西のほうの米朝さんや枝雀はどうなのか。こちらもテレビでの露出はかなりある。これも理由ではないか。

3.もうつかれた

・うっ、あぶないあぶない。こんなふうに段落打って書いてると、ほんものの志ん朝論になってしまうとこだった。私の志ん朝に対する腑に落ちない感は、あなたのコメントにたくします。どうぞ私に教えてたもれ。コメントお待ちしてますよ。
 
 ということで、うやむやのうちに終わってしまおうとしていますが、おわびに私が聴いた志ん朝で、よかったものをご進呈。こちらは腑に落ちますよ。

『愛宕山』 東西でいろんな人が演じてますが、志ん朝のが一番好きだな。




『四段目』 芝居好きの小僧さんと志ん朝がどんどん同一化してくるさまは圧巻。


 なんでえ、好きなんじゃねえか。


2013年9月9日月曜日

LOVE馬生

  10代目金原亭馬生が好きだ。別に宣言しなくてもよいのだが、好きなんだからしょうがない。もちろん、弟の志ん朝よりも。
 馬生との付き合いは、さほどに長くない。父親の志ん生や圓生、枝雀、小三治、4代目圓遊、6代目柳橋と、好きな落語家は多いが、彼らとはもう何十年と付き合っている。もちろん、録音を聴いているというだけなのだが。なぜか馬生はスルーしていた。
 ひとつは、志ん生志ん朝の名が大きすぎたからなのかもしれない。まったく陰に隠れてしまっていた。落語についてそんなに知識もなく、ただ聴いて笑ってただけの自分には、馬生の存在は薄かった。
 唯一持っていたのは、これ
 
これを聴いても、なんだかすっとんぼけたひとだなあ、と思っただけだった。
 ではなぜ好きになったのか、これやこの、まあ要するにYouTubeですよ。ほんとにありがたいです。ではここで、あなたもきっと馬生にはまるベスト3をご紹介。

 第3位は『吝い屋


 ケチの話は、圓生もいいし、4代目圓遊もいい。だが、この人のは、なんだか次元が違っている。その意味は、まあ、お聴きなさい。
 続いて第2位は、『笠碁』

 
馬生はいいなあ、と、いつ聴いても思えてしまう。馬生の演ずる人間はすべて愛らしい。
 堂々の第1位は、『うどん屋』

 
愛すべき酔っ払い。愛すべきうどん屋。馬生は、人間賛歌なり。聴かなきゃ損ですよ。


 このブログの第1回目にとりあげた、志ん生と圓生が満州に渡った話だが、志ん生が満州へ行くと、家族に告げたとき、唯一賛成したのが馬生だった。

「嬶と娘は、敵が上陸してくる噂がしきりのこの時期に満州行きなどとんでもないと猛烈に反対したが、倅(馬生)は逆だった。竹槍で戦おうという時に親父が酔っぱらっていては隣組に申し訳ないし、第一足手まといになる、東京で死のうとどこで死のうとおんなじことだ、ここは一つ空襲のない満州に行ったほうがいいというのでその気になったのである」(志ん生談)

 しかし、のんきな父親が2年も中国から引き揚げてこず、その間家族を養ったのは馬生本人だった。
 父親からは少しも稽古をつけてもらえず、ほかの師匠から稽古をつけてもらったり、自己流で噺を練りこんだりと、独自の芸風を磨き上げ、三遊派栁派のネタを多く持った。

 それだけ苦労しても、『志ん生の名は志ん朝に譲る』という父親の意をくみ、「志ん生」は弟に継がせると約束していたそうだ。名に執着はないということか。
 ではなぜ出囃子を、『鞍馬』から、晩年になって、父親と同じ『一丁入り』にかえたのか?

 酒しか口にせず、栄養失調になっていたほどの酒好き。1982年、54歳で永眠。死因の食道癌も、きっと酒のせいだろうね。

 もうすぐ9月13日。馬生の31回目の命日。『うどん屋』でも聴きましょうか。