2013年8月31日土曜日

落語家の祖

はち:「ごめんください」
隠居:「おっ、どうしたい、しばらくお見えがなかったな」
はち:「すっかりご無沙汰しちまいまして」
隠居:「いやあもう、ぶさたはけっこうだよ。なんでも人はご無沙汰をするようじゃなきゃいけねえ」
はち:「へえそうですかい」
隠居:「そうだよ、つまりご無沙汰するということは体に暇がない。体に暇がないということは商売が忙しい、したがってごぶさたをする。けっこうなこった」 
はち:「そうでもねんですがねえ」
隠居:「きょうはどうしたい」
はち:「じつは困ったことができましてね、ちょいと相談にめえったんです」
隠居:「こまったこと? どうした」
はち:「このごろはどうも不景気でいけねえ、なんかいい儲け口はねえもんかと、探して歩いてたんですよ」
隠居:「なにかあったか?」
はち:「あったもなにも、悪い野郎に騙されちまいましてね、そいつのいうことには、これからはブログってえのが儲かると、こういうんですよ」
隠居:「なんだい、ぶろぐってのは?」
はち:「まあくわしくはアッシも知らねんですがね、なんでもいいから文を書いて、それを他人様が読むと、金になるらしい」
隠居:「へえ」
はち:「でね、さっそくはじめたんですよ」
隠居:「どんな文を書いた?」
はち:「アッシもこの通りだから難しいことはいけねえ、何にするかほとほと考えました」
隠居:「なににした?」
はち:「へえ、落語だったら、暇がありゃあ聴いてるから、落語のことを書きました」
隠居:「ふむふむ落語か。で、儲かったか?」
はち:「そっちのほうはぜんぜんで」
隠居:「まあ、そんなにうまい話は転がってないな」
はち:「儲からねえんならやめちまえばいいか、なんて思ったんですけどね、アッシの文を読んでくれた人も少しはいたんでね、なんだかやめられねえ」
隠居:「人情だな」
はち:「1回目、2回目、と書いたんですがね、あとが続かねえ」
隠居:「書くことがないか」
はち:「そうなんです、よくよく考えてみますと、アッシは落語のこと、よく知らねえんです」
隠居:「乱暴な奴だな、知らないのを書いていたのか」
はち:「そこで今日は隠居に落語のことを教えてもらおうと」
隠居:「こっから本題だな。ここまで長くないか? だいじょうぶか?」
はち:「だいじょうぶでさあ」

隠居:「で、何が聞きたい」
はち;「ここはひとつ、落語とか落語家の始まりとか、そっからもう、聞きたいんで」
隠居:「世に落語の始まりはおおよそ千年前、『竹取物語』や、『今昔物語』『宇治拾遺物語』などの説話であると、いわれておるな」
はち:「へ? なんですそりゃあ」
隠居:「『竹取物語』ってのは知っておるだろう、かぐや姫のあれじゃ。日本最古の物語といわれておる。説話というのはだな、ほれ、芥川龍之介がそれをもとに書いた蜘蛛の糸を悪人がよじ登っていく、みたいな話じゃよ。」
はち:「そんなものが落語の始まりですか? おかしいなあ」
隠居:「なにがおかしい」
はち:「だってそれは物語の始まりで、落語の始まりっていうのかなあ。人のご先祖も、サルのご先祖も、犬のご先祖も、もとをたどれば、なんだか虫けらみてえなもんで、同じだってことといっしょじゃねえんですか?」
隠居:「ううむ、ではもう少し時代をくだって、落語家のご先祖様を見てみようかのう」
はち:「へえ」
隠居:「世にいう織豊時代、落語家の祖といわれた人物が二人いた」
はち:「なんですそりゃあ」
隠居:「織豊時代というのは、織田信長や豊臣秀吉がいた時代じゃ。まず一人目は、安楽庵策伝和尚」
はち:「坊さんですか」
隠居:「それもかなり高位で、偉かったようじゃな。策伝の兄は、飛騨高山藩主金森長近といわれておる」
はち:「へえ、でえみょうの弟ですか。そいつはえらいや。で、なんだってそんな偉いのが落語家のご先祖なんで?」
隠居:「この和尚、笑い話が得意でな、説教などにも笑い話を取り入れていたというんじゃ」
はち:「そんな坊さん、掃いて捨てるほどいますよ」
隠居:「まあ聞きなさい。この人が書いた『醒酔笑』というのは、笑い話の本の元祖じゃな」
はち:「自分で言ったお笑いを本にしたの? なんかいやなジジイだなあ」
隠居:「馬鹿にしたものでもないぞ。この本から、ほれ、お前さんも知っておるだろう、落語の『子ほめ』『牛ほめ』、『唐茄子屋政談』、『たらちね』なんていう噺が生まれたんじゃ」
はち:「おっ、だいぶ落語っぽくなってきましたね」
隠居:「この人とゆかりのある岐阜市では、毎年、『全日本学生落語選手権策伝大賞』というのが開催されておる」
はち:「へえ、ってことは世間じゃあだいぶ、この人が落語家のご 先祖ってことになってるみてえですねえ。で、もうひとりってのは?」
隠居:「もうひとりはな、豊臣秀吉のお伽衆曽呂利新左衛門じゃ」
はち:「おっ、それは知ってますぜ。もとは刀の鞘の職人で、そいつが作った鞘は刀ががそろりとおさまる、とかいう野郎でし    ょ?」
隠居:「確かにその人じゃ」
はち:「なんだってそんな職人が、落語家のご先祖なんで?」
隠居:「人を笑わせるのが得意でな、頓智頓才があったようじゃな」
はち:「へえ、どんな?」
隠居:「あるとき主人の秀吉が、自分の顔が猿に似ているのを嘆いたそうじゃ。それを見たお伽衆の新左衛門『猿のほうが殿下を慕って顔を似せているのです』と言って秀吉を笑わせたそうじゃ」
はち:「とんち彦一みてえな野郎ですね。そういうのは落語家というんですかねえ」
隠居:「ほれ、考えてもごらん。新左衛門はこの才能で、秀吉から扶持をもらっている。笑いで金を稼いだ最初の人間ではないかの」
はち:「そうですかねえ、人を笑わせる芸人なんてのは、大昔からいたような気がしますがねえ」
隠居:「ではもうすこし時代をくだって、落語家らしい最初の人間を見てみようか」
はち:「だいぶ長居をしちまいましたんで、それはまたの機会で。さっそく今日の話をブログに書き込んでめえりやす」
隠居:「そうかい、またおいで」
はち:「まったく、うぃきぺでぃあってのも、信じていいんだか悪いんだかわからねえ話が多すぎるなあ」
隠居:「おいおい、ネタを割るんじゃないよ」
       
      ♬てけてんてんてんてん

2013年8月19日月曜日

小三治と枝雀

前回、圓生と志ん生という落語界の巨人ふたりをとりあげた。なにか、正反対に見える落語家が、終戦後すぐの中国の街をふたりでうろうろしていたかと思うと、笑いがこみあげてくる。このふたりは、誤解を恐れずに言い切ってしまえば、歴史時代の名人二人である。
 では、現代の名人を二人上げよといわれれば、10代目柳家小三治と2代目桂枝雀に他ならない。志ん朝枝雀じゃねえのかよ、談志はどうした、などといわれる方もいるだろうが、まあ、そういうかたはおいていく。
10代目柳家小三治 本名:郡山剛蔵(こおりやまたけぞう)
1939年12月17日(73歳)
2代目桂枝雀 本名:前田達(まえだとおる)
1939年8月13日~1999年4月19日(満59歳没)
 この同い年のふたりには圓生志ん生がもっていたような、因縁があった。

 枝雀が死んで、その追善公演の時に東京から唯一呼ばれたのが、小三治だった。上方の大御所たちが会場の暑さとライトの熱気から汗みずくになっているのに、青白い顔をして、汗もかかずに
「この人のこと、よく知らねえんです」
と、切り出す。
「アッシは、酒もあんまり呑まねえし、付き合いもそんなにしないほうだから、この人のことよく知らねえんです。だから、なんで呼ばれたんだか、わからねえ」
 だが、内実は少し違ったようだ。この時のことを枝雀の師匠の米朝さんが語っている。
「……また具合(鬱病)が悪くなって……私があれを呼んだり、向こうから相談に来たこともあるけど、責めるようなことも言われへんし、私はそういう経験がないから、何とも言うてやれん。その点、柳家小三治とは話が合ってね、随分話をしたらしい。枝雀の追善会のとき小三治がやって来て、「個人的なことを言えば『うまくやりやがったな』と言いたい。ずるいよ」て言ってね、それが一番印象に残っていますわ」

 また、よく知らないという本人も書いている。こちらは、ちくま文庫の『桂枝雀爆笑コレクション3』の解説から。

「ずい分前。三十年以上前かな。朝日放送の録音で大阪へ行って、楽屋で一緒になった。帰りにちょっとどうです? と誘われた。一杯飲み屋だったか寿司屋だったかはっきりとした記憶はない。ひとに誘われることが億劫なタチの私としては珍しく、あの時くすぐったいようにうれしかった。カウンターに並んであの時どんな話をしたのか憶えがない。ということは大した話題が合ったわけでもなかったろう。私の右隣りに腰をおろしたあなたが時々ふわふわと笑っていたようだったということしか記憶がない。けど何故かこの記憶はうれしい。

あなたを、私は何と呼んでいたろう。あなたとは呼ばなかった。きみでもなかった。枝雀さんとも呼びかけなかった。会えば、お互いにちょっと笑顔になって『よう』とか『やあ』とかだったろうと思う。『ごぶさたしております』とか『しばらくです』なんて切り出すことは
なかった。

 家へ帰ると『今日は小三治さんに会った』と、おかみさんにうれしそうに話したという話は、あなたがそちらへ行ってからあなたのおかみさん、志代子さんから届いた手紙で知った。ということは、おれも同じことを家へ帰ってうちのかみさんに話していたのと同じじゃないか。

あなたに顔を合わせることは、二年に一度、三年に一度てなもんだった。いや、もっと会ってない時もあった。けど、私の心の中にはなにかとあなたが居た。当り前の仲以上の意識で私は感じていたことになる。

これは、何なんだろう。

そんなことについて私はあなたに話したこともない。手紙を出したこともない。ただ、大阪にあいつがいるなと軽い程度で心に懸けていたということだろうか。

なにかについて、じっくり話をしたことなどなかった。
 会って二た言三言ことばを交わせば、いつもそれでよかった。あとはあなたが何を考えているか、わかった。ような気がした。ような気がしただけで、本当はわかっていなかったんだろう。でも、それで満足だった。いい気持だった。その上、あいつもきっとおれと同じように感じているなと思えるのだった。

あなたがこんなに急いでそちらへ行っちまうなんて知らなかった少し前。文我さんといささかのつながりがあったということから、文我襲名披露興行に幾度か招いていただいてお手伝いをさせていただいた。披露口上があるから、この折、何年分かを取り戻すように、あなたにたびたび顔を合わせることになった。同じ楽屋で時間待ちをしていることもあったが、殆んど片言以外、口を利くことはなかった。うれしい時間だった。あなたも私と同じうれしさでいることは伝わってきた。

そんなことどもについて、話をすることはとうとう無いままになった。

おれがどんな力になれるものでもない。それは知っていた。だけど、あなたが死に急いだほんの数か月前。正確には二月頃。あなたを訪ねて、何か話がしたかった。そのころのそちらの状況は何も知るものではない。虫の知らせなどというのは、それは後になって言えることで私は何も知らない。ただ、あなたを訪ねて、訪ねたことがないからどういうお宅に棲んでるかは知らないが、あなたの家の二階で二人で仰向けに寝ころんで、天上を見ながらボソボソと今まで話したこともない心の領域に踏み込んで話をしてみたかった。

 私が心を開いて話せば、きっとあなたも心を開いて話をしてくれると思っていた。いやあなたの心を開けないとしても、私には話をしたい私自身の心の辛さがあった。それを聞いてもらうだけでもいい、楽になれると思った。もう、そんな話を語り合ってもいいと思った。あんなに強くそれを思っていたのに、二月にはと心に思っていたのに、何やかやと私の都合に取り紛れて一本の電話をしそびれてしまった。

 心に残ることである。残念とはこのことを言うのだ。かえすがえすも……。

昭和三十八、九年だったろう。
 落語の東西交流というのがあって、幸いにもまだ駈け出しの私が角座に十日間の出番を授かった。その折に覗いた千日前劇場に当時小米といったあなたの高座を見た。歯切れのよい、トントンと進める噺のリズムの良さ。登場人物が生き生きとうごめいていた。何の飾り気もない。無理に客を笑わせようなんてこれっぽっちもない。あのどぎつい笑いを歓迎するはずの千日前の客席が、この若い噺家の素噺にどよめいていた。大阪にはすごいやつがいるなあ。それがあなたとの初めての出会いだった。あの高座の爽やかな空気感は、あれから四十数年にもなんなんとする今も忘れることが出来ない。

 何年か経って、東京の労音会館での初の二人会。以降忘れたころに一緒の高座がぽつりぽつりとあった。その時分は、大阪の落語界のことは今以上に東京では知り得ない。あれは静岡の清水だったかの二人会で、枝雀の超人気を思い知らされることになる。その日、会場を埋めた観客で、私を目当てに来たのはほんの数人で、あとは全部枝雀だった。いつのまにか枝雀は大スターになっていた。やっぱりかなわねえなあいつには。いいや、いいや、おれはこぢんまりやっていくしかねえや。

けど、また忘れた頃に会うことになるあなたは、『ひさしぶり』と言うこともなく、ちょっと顎を引き気味にして、ちょっとだけうつむき加減で、ちょっと笑顔で目を細めて遠くから近づいて来る。
 『やあ』とか『よう』とか、すぐそばでしか聞こえないような声を掛け合った」
 

この稿の参考になればと読んでいたのだが、つい、全文引用。天才二人。




再生リスト:2代目枝雀
http://www.youtube.com/playlist?list=PLxo1b5URKLWk2Dcafzbvlgvh6t32cWifO

再生リスト:10代目小三治
http://www.youtube.com/playlist?list=PLxo1b5URKLWmC-EmtQpZiFc-Aqaj8s_Fw


2013年8月14日水曜日

圓生と志ん生

 1945年8月15日、5代目古今亭志ん生(本名:美濃部孝蔵)6代目三遊亭圓生(本名:山﨑松尾)の二人は、満州にいた。…なんてふうに書き出すと、手に汗握っちゃう感じだが、どうもこの二人には似合わない。
  あっちにいけば食べ物はふんだんにあって、酒も呑み放題。親切なご婦人方もよりどりみどり。空襲もないから夜は眠り放題。なんてったって興行元は満鉄の子会社だからお給金がいい。これは松ちゃん行くしかないよ。
 てんで、出発したのが5月。志ん生このとき55歳、人気がようやくでてきたころ。圓生45歳、行儀がいいだけの噺家、下手な真打、なんてえらい言われようのころ。
  1か月の興行はまず成功、では帰りましょう、とはいかなかった。この時すでに戦局が深刻化、日本海にアメリカの潜水艦が出没して、通る船を沈めてるってんで、日本への船がまったくない。しょうがないから、6、7月と満州中を二人で巡業。8月になって、大連で興行中、敗戦。
  ソ連軍が攻めてくる、大丈夫だこっちにはアジア最強の関東軍がついている、いざロスケがやってくると、関東軍ははるか朝鮮のほうまで逃げていた。
  大連は日本人の避難民であふれかえり、ソ連軍は大連の内と外を封鎖。それからおよそ2年の間、圓生と志ん生はそこにいた。その頃の生活がどのようなものだったのかは、断片的に伝わっているようだ。
 しかし、2年の後、日本に帰ってきた志ん生の芸は絶頂期に向かい、鳴かず飛ばずだった圓生はすぐさま頭角を現す。このことを説明してくれそうな断片は落ちていない。
  多分にフィクションの要素が高いと思いますが、井上ひさし作:こまつ座公演『円生と志ん生』は二人のこの時の2年間を題材にしています。集英社から戯曲がでているので、終戦の日に読んでみてはどうでしょう? (別にアフェリエイトじゃありません)  

再生リスト: 5代目志ん生
http://www.youtube.com/playlist?list=PLxo1b5URKLWkcF8kFHMr9sMHJocMXXD6-

再生リスト:6代目圓生
http://www.youtube.com/playlist?list=PLxo1b5URKLWkBaUxHLQlAbnI6POM1zyxW