2013年8月19日月曜日

小三治と枝雀

前回、圓生と志ん生という落語界の巨人ふたりをとりあげた。なにか、正反対に見える落語家が、終戦後すぐの中国の街をふたりでうろうろしていたかと思うと、笑いがこみあげてくる。このふたりは、誤解を恐れずに言い切ってしまえば、歴史時代の名人二人である。
 では、現代の名人を二人上げよといわれれば、10代目柳家小三治と2代目桂枝雀に他ならない。志ん朝枝雀じゃねえのかよ、談志はどうした、などといわれる方もいるだろうが、まあ、そういうかたはおいていく。
10代目柳家小三治 本名:郡山剛蔵(こおりやまたけぞう)
1939年12月17日(73歳)
2代目桂枝雀 本名:前田達(まえだとおる)
1939年8月13日~1999年4月19日(満59歳没)
 この同い年のふたりには圓生志ん生がもっていたような、因縁があった。

 枝雀が死んで、その追善公演の時に東京から唯一呼ばれたのが、小三治だった。上方の大御所たちが会場の暑さとライトの熱気から汗みずくになっているのに、青白い顔をして、汗もかかずに
「この人のこと、よく知らねえんです」
と、切り出す。
「アッシは、酒もあんまり呑まねえし、付き合いもそんなにしないほうだから、この人のことよく知らねえんです。だから、なんで呼ばれたんだか、わからねえ」
 だが、内実は少し違ったようだ。この時のことを枝雀の師匠の米朝さんが語っている。
「……また具合(鬱病)が悪くなって……私があれを呼んだり、向こうから相談に来たこともあるけど、責めるようなことも言われへんし、私はそういう経験がないから、何とも言うてやれん。その点、柳家小三治とは話が合ってね、随分話をしたらしい。枝雀の追善会のとき小三治がやって来て、「個人的なことを言えば『うまくやりやがったな』と言いたい。ずるいよ」て言ってね、それが一番印象に残っていますわ」

 また、よく知らないという本人も書いている。こちらは、ちくま文庫の『桂枝雀爆笑コレクション3』の解説から。

「ずい分前。三十年以上前かな。朝日放送の録音で大阪へ行って、楽屋で一緒になった。帰りにちょっとどうです? と誘われた。一杯飲み屋だったか寿司屋だったかはっきりとした記憶はない。ひとに誘われることが億劫なタチの私としては珍しく、あの時くすぐったいようにうれしかった。カウンターに並んであの時どんな話をしたのか憶えがない。ということは大した話題が合ったわけでもなかったろう。私の右隣りに腰をおろしたあなたが時々ふわふわと笑っていたようだったということしか記憶がない。けど何故かこの記憶はうれしい。

あなたを、私は何と呼んでいたろう。あなたとは呼ばなかった。きみでもなかった。枝雀さんとも呼びかけなかった。会えば、お互いにちょっと笑顔になって『よう』とか『やあ』とかだったろうと思う。『ごぶさたしております』とか『しばらくです』なんて切り出すことは
なかった。

 家へ帰ると『今日は小三治さんに会った』と、おかみさんにうれしそうに話したという話は、あなたがそちらへ行ってからあなたのおかみさん、志代子さんから届いた手紙で知った。ということは、おれも同じことを家へ帰ってうちのかみさんに話していたのと同じじゃないか。

あなたに顔を合わせることは、二年に一度、三年に一度てなもんだった。いや、もっと会ってない時もあった。けど、私の心の中にはなにかとあなたが居た。当り前の仲以上の意識で私は感じていたことになる。

これは、何なんだろう。

そんなことについて私はあなたに話したこともない。手紙を出したこともない。ただ、大阪にあいつがいるなと軽い程度で心に懸けていたということだろうか。

なにかについて、じっくり話をしたことなどなかった。
 会って二た言三言ことばを交わせば、いつもそれでよかった。あとはあなたが何を考えているか、わかった。ような気がした。ような気がしただけで、本当はわかっていなかったんだろう。でも、それで満足だった。いい気持だった。その上、あいつもきっとおれと同じように感じているなと思えるのだった。

あなたがこんなに急いでそちらへ行っちまうなんて知らなかった少し前。文我さんといささかのつながりがあったということから、文我襲名披露興行に幾度か招いていただいてお手伝いをさせていただいた。披露口上があるから、この折、何年分かを取り戻すように、あなたにたびたび顔を合わせることになった。同じ楽屋で時間待ちをしていることもあったが、殆んど片言以外、口を利くことはなかった。うれしい時間だった。あなたも私と同じうれしさでいることは伝わってきた。

そんなことどもについて、話をすることはとうとう無いままになった。

おれがどんな力になれるものでもない。それは知っていた。だけど、あなたが死に急いだほんの数か月前。正確には二月頃。あなたを訪ねて、何か話がしたかった。そのころのそちらの状況は何も知るものではない。虫の知らせなどというのは、それは後になって言えることで私は何も知らない。ただ、あなたを訪ねて、訪ねたことがないからどういうお宅に棲んでるかは知らないが、あなたの家の二階で二人で仰向けに寝ころんで、天上を見ながらボソボソと今まで話したこともない心の領域に踏み込んで話をしてみたかった。

 私が心を開いて話せば、きっとあなたも心を開いて話をしてくれると思っていた。いやあなたの心を開けないとしても、私には話をしたい私自身の心の辛さがあった。それを聞いてもらうだけでもいい、楽になれると思った。もう、そんな話を語り合ってもいいと思った。あんなに強くそれを思っていたのに、二月にはと心に思っていたのに、何やかやと私の都合に取り紛れて一本の電話をしそびれてしまった。

 心に残ることである。残念とはこのことを言うのだ。かえすがえすも……。

昭和三十八、九年だったろう。
 落語の東西交流というのがあって、幸いにもまだ駈け出しの私が角座に十日間の出番を授かった。その折に覗いた千日前劇場に当時小米といったあなたの高座を見た。歯切れのよい、トントンと進める噺のリズムの良さ。登場人物が生き生きとうごめいていた。何の飾り気もない。無理に客を笑わせようなんてこれっぽっちもない。あのどぎつい笑いを歓迎するはずの千日前の客席が、この若い噺家の素噺にどよめいていた。大阪にはすごいやつがいるなあ。それがあなたとの初めての出会いだった。あの高座の爽やかな空気感は、あれから四十数年にもなんなんとする今も忘れることが出来ない。

 何年か経って、東京の労音会館での初の二人会。以降忘れたころに一緒の高座がぽつりぽつりとあった。その時分は、大阪の落語界のことは今以上に東京では知り得ない。あれは静岡の清水だったかの二人会で、枝雀の超人気を思い知らされることになる。その日、会場を埋めた観客で、私を目当てに来たのはほんの数人で、あとは全部枝雀だった。いつのまにか枝雀は大スターになっていた。やっぱりかなわねえなあいつには。いいや、いいや、おれはこぢんまりやっていくしかねえや。

けど、また忘れた頃に会うことになるあなたは、『ひさしぶり』と言うこともなく、ちょっと顎を引き気味にして、ちょっとだけうつむき加減で、ちょっと笑顔で目を細めて遠くから近づいて来る。
 『やあ』とか『よう』とか、すぐそばでしか聞こえないような声を掛け合った」
 

この稿の参考になればと読んでいたのだが、つい、全文引用。天才二人。




再生リスト:2代目枝雀
http://www.youtube.com/playlist?list=PLxo1b5URKLWk2Dcafzbvlgvh6t32cWifO

再生リスト:10代目小三治
http://www.youtube.com/playlist?list=PLxo1b5URKLWmC-EmtQpZiFc-Aqaj8s_Fw


0 件のコメント:

コメントを投稿