前回、馬生を取り上げたので、ではでは、今回は志ん朝ということで。…あっ、最初にいっときますが、タイトルは、「慎重論」とかけているだけです。むずしいことは申せません。
古今亭志ん朝と聞くと、なぜかもやもやとした気分に陥ってしまう。兄の金原亭馬生の場合は、ひいきもあるのだろうが、笑いがこみあげてくる。ところがこちらの場合は、まゆをひそめ、首をかしげ、考え込んでしまう。
嫌いなのか、と問われると、また首をかしげてしまう。この人の噺で、好きなのも多い。でもなにか腑に落ちない。なんなんだ、この感覚は。
江戸落語四天王などと呼ばれていた談志、圓楽、圓蔵(柳朝は知らない)、志ん朝のうちだれが好きか、と問われれば、志ん朝以外全部嫌い、と答える。さりとて、志ん朝が好きとは、なぜか言いたくない。
いつまでも首をかしげていても仕方がないので、推論してみよう。
1.めぐまれすぎている
・父親が志ん生だ、というのが一番恵まれていることだろうが、それは馬生も同じだ。
・入門5年で真打にスピード出世。「圓朝」を継ぐのはこの人だ、などとまで志ん朝をほめていた8代目文楽のヒキで。はっきりいってこんな話は知らなかったので、私のもやもや感とは無関係。
2.テレビタレント
・さきほどの江戸落語四天王の話だが、4人が4人とも、なんだか落語家というより、タレントっぽい。それほどテレビでの露出が高かった。談志は偉そうで嫌い。圓楽は話が詰まらん。圓蔵(柳朝は知らん)は生理的に受け付けない。まともなのは志ん朝だけだが、タレントっぽいから好きじゃないのか? では西のほうの米朝さんや枝雀はどうなのか。こちらもテレビでの露出はかなりある。これも理由ではないか。
3.もうつかれた
・うっ、あぶないあぶない。こんなふうに段落打って書いてると、ほんものの志ん朝論になってしまうとこだった。私の志ん朝に対する腑に落ちない感は、あなたのコメントにたくします。どうぞ私に教えてたもれ。コメントお待ちしてますよ。
ということで、うやむやのうちに終わってしまおうとしていますが、おわびに私が聴いた志ん朝で、よかったものをご進呈。こちらは腑に落ちますよ。
『愛宕山』 東西でいろんな人が演じてますが、志ん朝のが一番好きだな。
『四段目』 芝居好きの小僧さんと志ん朝がどんどん同一化してくるさまは圧巻。
なんでえ、好きなんじゃねえか。
志ん朝師匠に「志ん生」の名前を継いで欲しかったです。
返信削除本人はその気はないと仰っていましたが、あと何年かしたら
気持ちも変わっていたのではないかと思っています。
もしその時が来ていたら、師匠の高座はもっともっと
素晴らしいものになっていたんじゃないかと・・・。
長生きして欲しかったなあ。
ほんにね。長生きすることが、名人と呼ばれる絶対条件です。現存の小三治師匠には150歳までは生きていてほしいなあ。
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