2013年10月22日火曜日

三遊亭圓朝『落語の濫觴(らんしょう)』

 前回お約束の圓朝ものをひとつ。『落語の濫觴』です。濫觴は、らんしょう、と読み、はじまり、とか、起源の意。
 以前このブログで、『落語家の祖』という稿を書きました。その折は、ウィキペディアを丸パクリで書いたのですが、よくよくこの『落語の濫觴』を読んでみると、ウィキの述者は、この『落語の濫觴』を丸パクって、書いていたようです。いやあ、縁がありますわ。
 ということでさっそく。


落語の濫觴

三遊亭圓朝

 落語の濫觴は、むかし狂歌師が狂歌の開きのときに、互いに手をつかねてツクネンと考えこんでおっては、気が屈します。そこで、その合間に世の中の雑談を互いに語りあって、一時の鬱をやつたのが、はじまりでござります。

 なお、その前にさかのぼつて申しますると、太閤殿下の御前にて、安楽庵策伝という人が、小さい桑の見台の上に、宇治拾遺物語のようなものを載せて、お話をしたという。
 これは、皆さまも御案内のことでございますが、そのとき豊公の御寵愛をこうむりました、鞘師の曾呂利新左衛門という人が、このことを聞いて、私もひとつ、やってみとうござる、というので、おかしなお話をいたしましたが、策伝の話より、いっそう御意にかない、その後たびたび御前に召されて新左衛門、種々、滑稽雑談を演じたという。

 それよりのちに、鹿野武左衛門という者が、鹿の巻き筆というものをこしらえ、また露野五郎兵衛というものが出て、露物語でございますの、あるいは露の草紙というものができました。それきり絶えて、この落語というものはなかったのでございます。

 それよりくだって、天明四年にいたり、落語というものが再興いたしました。
 これは前にも申しました通り、狂歌師が寄つて、狂歌の開きをいたす時、なにかお互いにおかしい話でもして、わっと笑う方がよかろうというので、二三回やってみると、とんだ面白いので、毎月やろうという事にあい成り、蜀山人、あるいは数寄屋河岸の真顔でございますの、談洲楼焉馬(だんしゆうろうえんば)などというすぐれた狂歌師が寄って、ただ落語をこしらえたまま開いてもおもしろくないから、やはり判者を置く方がよかろうというので、烏亭焉馬(うていえんば)を判者にいたし、そこで狂歌師の開きと共にこの落語の開きもやろうという事になり、談洲楼焉馬が判者で、四方の赤良(よものあから)が補助という事で、ちらしを配ったが、向島の武蔵屋の奥座敷が静かでよかろう、ちょうど桜も散つてしまった四月二十一日ごろと決したが、そのちらしの書き方がまことにおもしろい。

 「このたび向島の武蔵屋において、昔話の会が権三(ごんざ)りやす」

  と書いた。これは武蔵屋権三郎をひっかけたのだが、何日とも日がしたためてないから、幾日だろう、不思議な事もあるものだ、これは落字をしたのかしら、忘れたのではないか、と不審を打つ者があると、数寄屋河岸の真顔が、「いやこれは大方、二十一日にちであろう。『昔』という字は、廿一日と書くから、まあ、二十一日に行って見なさい。
 なるほどと思つて、当日行ってみると、のぼりなどをたて、盛んに落語の会があったという。してみると、無理にひとに聴きかせよう、というわけでもなんでもなかったのでござります。

かかる事はわたくしも、さっぱり存ぜずにおりましたが、かの談洲楼焉馬がしたためた文によって承知いたしました。その文に、

 「それ羅山の口号に曰く、万葉集は古詩に似たり、古今集は唐詩に似たり、伊勢物語は変風の情を発するに贋たり、源氏物語は荘子と天台の書に似たりとあり。ここに宇治拾遺物語といえるは、大納言隆国卿皐月より葉月まで平等院一切経の山際、南泉坊に籠もりたまい、あうさきるさの者のはなし、高き賤しきをいわず、話に従い大きなる草紙に書かれけり、貴き事もあり、哀れなる事もあり、少しは空物語もあり、利口なる事もありと、前文に記し置かれたり、竹取物語、宇津保物語は噺の父母にして、それより下つ方に至りては、爺は山へ、婆は川へ洗濯、桃の流れしということをはじめ、そのはなしの種、夭々としてその葉は秦々たり。されば竹にさえずる舌切雀、月に住む兎の手柄てがら、いづれか噺に洩れざらん、力をも入れずして頤(おとがい)のかけがねをはずさせ、高き花魁の顔をやわらぐるもこれなり。このはなし、いつぞや下の日待ちのとき、ひらきはじめしより、いざや一会、もよおさんと、四方赤良大人、朱楽管江大人、鹿都辺真顔、大屋の裏住み、竹杖の為軽(すがる)、つむりの光、宿屋の飯盛をはじめとして、向島の武蔵屋に落語の会が権三り升と、四方大人の筆にみしらせ、おのれ焉馬を判者になれよと、狂歌の友どち一百余人、戯作の口を開けば、遠からん者は長崎から強飯のはなし、近くば、よつて三升の目印し、門前に市をなすにぞ、のど筒の往来かまびすしく、笑う声、富士筑波にひびく。時に天明四つの年、甲辰、四月廿一日なり。それより両国尾上町、京屋が楼上に集会すること十歳あまり、これを聞くものおれわれに語り、今は世渡るたっきともなれり、峨江はじめはさかづきをうかめ、末は大河となる噺も末は金銭になるとは、借家を貸して母屋を取らるるたとえなるべし、とはいえ、これも大江戸のありがたき恵ならずや。

よいおとし噺も年も七十の
         市が栄へて千代やよろづよ
文化十癸酉春
                 談語楼銀馬のもとめに応じて


                                           七十一翁、烏亭焉馬
                                            於談洲楼机下述印」
 
 
 右は軸になっておりますが、三遊亭一派の共有物として、わたくしは門弟どもの方へあずけておきましたけれども、これは河竹黙阿弥翁が所有されていたのを、わたくしがもらい受けました。それ故、箱書きも黙阿弥翁にしたためて貰いましたが、この文中にもある通り、十有余年、昔話がはやったことと見えまする。

 それ故、誰も彼も聴きにまいるなかに、可楽という者があって、これは櫛職人でござりましたが、いたって口軽なおもしろい人ゆえ、私も一つとびいりに落語をしてみたいと申しこんだ。
  
 するとこの狂歌師のなかへ職人をいれたら品格が悪くなるだろう、と拒んだものもあったが、なに職人だって話が上手なら仔細ないという事で、可楽をいれてやらせて見た所が、たいそう評判がよろしく、可楽が出るようになってから、ひときわ聴き手がふえたというくらい。

 そこで可楽がふと考えついた。

可楽:『これはおもしろい。近頃、落語がだいぶはやるから、どこかで座料を取って、内職にやつたらおもしろかろう、事によつたら片商売なるかもしれない』

 と、昼間は櫛をこしらへ、夜だけ落語家でやつてみようと、これから広徳寺前の○○茶屋というのがござりまして、その家の入口へ行燈をかけたのです。
 
 ただ「はなし」と書き放しにして、名前などを書いたものではない、細い小さな行燈を出して、いらっしゃいいらっしゃいというと、大都会のことだからすぐに御武家がひとりはいってきて、

お武家:『早くしてくれ』

可楽 :『ええ、もう二三人おいでになるとじきに始まります』

お武家:『もう二三人来るまで待ってはおられぬ、腹が減ってたまらぬのじゃ』

 これは、菜めしとまちがえた、という話です。

 その頃は商売ではなかったから、それくらいのものでござりましたろう。
 
しかるに、当今にいたっては、寄席商売というものがたいそう増えて、かように隆盛にあいなったのでござります。








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